becauseofthe3のブログ

ブログという名の文体練習

西の禿げ茶瓶が死んだ

はじめに

 尊敬する人から連絡があった。17年を共にした家族を急に亡くしたらしい。何と声をかけるべきか、あるいは声をかけないべきか逡巡した。僕はその悲しみの深さを推し量るために僕にとって最も大きい存在だった祖父との時間を思い出そうと努めた。僕は自分の類似の経験を拾い上げないと他者の気持ちに想像力が働かない。

 祖父が亡くなってやがて10年が経つ。僕は彼の誕生日は覚えているが命日は覚えていない。彼の手料理の味付けも顔のどこかにあった黒子の位置も思い出せなくなった。九州訛りの強かった彼流の口調を再現することも難しい。僕は時間的にも空間的にも随分思い出と隔たってしまった。10年近くの時間が僕たちの関係性をほとんどノンバーバルなものに融解してしまった。今となっては彼に言われた事柄をほとんど思い出せない。

 それでも覚えていることももちろんある。彼が出汁をとった後のいりこ*1をそのまま味噌汁に入れることや煮魚を小骨からはらわた、目玉に至るまで食べられると実演しては威張っていたこと、庭の石臼に水を湛えて金魚*2を泳がせていたこと……。思い出の多くは人に言わせれば枝葉末節と言われるような、そこから何も引き出すことができない事柄である。

 身近な存在ほど往々にして多面的で矛盾に満ちている。「祖父」の語に形容詞を1つ2つ付ければ説明が事足りる、ということはあり得ないと思っている。少なくとも彼を亡くした当時はそう思っていたし、今も根本においてはその考えを撤回していない。「彼が僕にとってどういう存在だったか」と言う問いは畢竟当時の僕の環境や生活への回顧を要求する。当時の僕は彼という存在の意義を計りかねた。しかし忘却の要因である時間的・空間的変化により、今日かえって客観的な理解が可能となっている側面もあると信じる。

 以下に記すのはおよそ7年間生活を共にした僕の視点から紡ぐ彼についての言行録である。話は彼が58歳、僕が5歳だった頃に遡る。

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 熊本県民は熊本市の中心地を「マチ」と呼ぶ。県下最大のオフィス街、週末には学生からサラリーマンまで集う繁華街、そして加藤清正以来の城下町としての「マチ」。僕は5歳の頃、「マチ」がある熊本市と隣り合う町に引っ越すことになった。

 引っ越した町は「マチ」に勤めるサラリーマンや郊外の自動車・IT工場に勤める人のためのベッドタウンとして県内外から人を呼び活気を帯び始めていた。町内の外れには祖父母の家があり、両親はそこから車で15分ほどのところにアパートを見つけた。

 父方の祖父——と言っても僕には母方の祖父はいないのだが——は僕がそれから長らく住むことになる町をはじめとした地域で37年間、公立小学校で教鞭を執っていた。僕の両親はその経験を頼って祖父に僕がどの学校に向いているかを尋ねたらしい。祖父が勧めたのは賑わい出した地域内の小学校でも生徒数が少なく、長閑な、そして何より祖父が最後に勤めた学校だった。1学年26人が2クラス、学校では枯れ草と雑草を食べすぎてダイエットを強いられているヤギが飼われていた。たしかウサギも飼われていたと思うがしょっちゅう逃げ出していた気がする。

 祖父は59歳、定年まで1年を残して教壇を降りた。僕が入学するまさにその年に入れ替わるようにリタイヤしたのだった。周囲には体力的に限界だと言っていたらしい。退任前は負担を考慮して担任ではなく理科の先生を任されていた。

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 入学して初めての担任は祖父が長い付き合いで信頼を置くI先生だった。先生が10年ほど後に教えてくれたことだが、祖父は僕をよろしく頼むと言っていたらしい。もちろん先生は僕に限らず豊かな情を生徒全員に注いでくれた。彼女が僕の担任になったのは偶々だったらしいが、早生まれで一番小さく幼かった僕は元同僚の孫ということを差し引いても手が掛かる生徒だったと思う。窓際でぼーっと外を眺めたり、入学時の筆跡を残すため用紙に自分の名前を書く活動では1人だけ赤鉛筆で名前を書いたり、給食では満腹になったり好き嫌いがあれば昼休みが終わるまで先生とお盆の上で睨めっこをしたり……。

 初めて小学校の保健室を利用した時のことを覚えている。転んで擦り傷でも作ったのか、泣いている僕を保健室の先生があやしてくれた。老眼鏡のつるにそれぞれ首紐のチェーンを付けた先生は子供の僕にはお婆ちゃんに見えた。保健室の先生に心を開き機嫌を良くした僕はとっておきの秘密めかして「僕のお爺ちゃん、ここの学校の先生だったんだって。〇〇先生って知ってる?」と祖父の話をした。白衣の先生は大笑いしていた。

 理科の先生だった祖父を知る生徒は上級生に多かった。時々給食を完食して図書室に行くと毎回遊んでくれる上級生がいた。もしかしたら彼は一部の生徒には「孫がいる」という話をしていたのかもしれない。あるいはありふれた名前でもないので左胸に付けたひらがなの名札でわかったのかもしれない。今思えば卒業するまで彼ら上級生に3年間ほど可愛がってもらえたのは大変ありがたいことだ*3

 先生や生徒の温かい眼差しや繋がりを僕にもたらしてくれた祖父はきっと学校ではリッパだったのだろう。

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 1年生が半分過ぎた頃だったと思うが、両親が離婚したので放課後は運動場の隅にある学童保育所に預けられることになった。親権のあった父親は平日午後8時ごろまで仕事をしていたので学童には祖父が迎えにきた。そんな具合で3年生に上がるまで平日の夕方と土日は祖父の家で過ごすのがルーティンになっていた。元々住んでいた同じ町内のアパートは平日の夜に寝に帰るだけの場所になった。

 夕方、祖父は学童まで僕を車で迎えに来ると、「立ちっぱなしだと坐骨神経痛が……」とぼやきながら僕が宿題をやっている姿を背中に晩御飯を作った。音読の宿題は保護者がチェックするのが決まりになっていたので祖父の前で教科書を読むと、音読カードの「良くできた」の欄に震える手で丸を描いてくれた——彼は右手の腱を切ったことがあり少し震えた字を書く。

 「時々会う人」から急に「毎日会う人」になった50も歳の離れた僕たちは生活上、あるいは人間的にどういう接点をもっていたのだろう。初めは相当ぎこちなかったんじゃないかと推測する。夕方に鉛筆の先が丸まっていることについて小言を言いながら彼は僕の鉛筆を全部カッターで尖らせた、それを待っている時の手持ち無沙汰な間を覚えている。

 僕が熱を出したり喘息を起こして早退する時、迎えに来るのは決まって祖父だった。そういう時の彼は仏頂面でいつにも増して口数が少ない。体調不良の僕を労わる言葉をかけるわけではなかったが、指の爪が大きいゴツゴツした手でランドセルを持ってくれた気がする。

 凝り性だった祖父は日中お料理教室やパソコン教室に通っていた。新聞の料理の記事を切り抜いてノートに貼り付けていた。迎えの車の中や食卓では調理の一手間や最近覚えた技法の説話をしていたが、そうした話は決まって僕の耳を右から左に抜けていくので彼は口を横に曲げて「いっちょん*4聞いとらん」と言うのだった。

 祖父は日中、株式投資もやっていた。これもハマっていたのかフィボナッチ数列の本を買っては僕に何やら講釈を垂れていたが、どれくらいの稼ぎになっていたのかは聞いたことがなかった(そもそも僕には関心がなかった。)。後々聞くと祖母曰く結構負けていたらしい。料理の上達や庭仕事の進捗は話すのに株の勝った負けたを彼の口から聞かなかったのも当然だ。

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 株はあまり上手じゃなかったらしいが、料理の腕はどんどん上がっていた。「そこらへんのレストランより俺が作った方が上手く作れる」「俺は片付けの段取りまで考えるから手際が良か」と鼻高々だった。

 彼は生活上のことは自分1人でなんでもできる人間を良しとしていたところがあると思う。自宅の造園も自分で色々調べて木々の配置を変え、季節によっては剪定と芝刈に汗を流した。僕は「かせ*5してくれ」と言われ渋々手伝っていた。そんな彼も1人では背中に湿布も貼れないので俺が貼っていた。

 炬燵でぶつかる彼の足の裏はどうやったらそんなに固くなるのか不思議なくらい固かった。一方の祖父は運動不足の僕の腹の柔らかさに目をつけた。晩酌をした時に僕の腹を枕にして寝転んだ。酔っ払いは「こん腹んごた枕ば商品化すると売れる*6。名前は『孫の腹枕』」と禿げた頭の中で算盤を弾いた。彼は続けて「カラーバリエーションも用意して『彼氏の腹枕』とか『妻の腹枕』とかも作れそうだ」と言った。仮に彼が商売を始めていたらとんでもなく恐ろしいことになっていたと思う。

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 僕の最も古い記憶の一つに祖父の家で飼っていたゴールデン・レトリバーのお産の光景がある。僕が3つか4つだったと思う。犬は何頭かの仔犬を産んだ。我が家では多頭飼いをしていなかったので「ライの子供のお父さんは誰なの」と疑問を祖父に投げかけた。祖父は「想像妊娠だと思う」と言って僕を煙に巻いた。子供だった僕はそれからずっと受胎告知じみたことを信じていた。仔犬たちは全員里親に引き取られていった。引き取り手の一人が将来僕の担任になるI先生だったと知るのは随分経ってからだった。

 犬は僕が9歳になるまで生きた。星が降りてくる頃、秋口には彼岸花が咲く畦道を祖父と犬とで散歩した。僕の手には懐中電灯。祖父の手には犬のリード。犬が祖父よりも先に行こうとすると決まって彼は犬を制するのだった。犬は僕に似たのか、彼女に僕が似たのか祖父の言うことはあまり聞かなかった。彼女はよく庭の金木犀の木陰に穴を掘り、そこからひょこんと顔を出してはニコニコしていた。穴掘り禁止令は度々発令していたのだが馬耳東風、犬の耳に何とやらだった。

 彼は僕の長い髪が耳にかかるのをよしとせず定期的に僕を理髪店に連れて行った。短髪やスポーツ刈りが本当は望ましいなどと言っていたが、そこまで厳格な頭髪指定はなかった。ただ理容師が短めに切ると「見た目だけは足が早そうに見える」みたいなことを言って喜んだ——「マゴにも衣装」なんてギャグは彼が言ったのか、僕が今思いついたのか判然としない。いずれにしても車中の会話はその類のものが多かった気がする。

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 3年生に上がると放課後は学童ではなくスイミングスクールに入れられた。喘息が酷かったからだ。ほぼ毎日スイミングスクールに行き、ひと泳ぎしたら祖父が迎えに来るシステムになった。月2回ほどの習字教室にも入れられたがどちらの習い事も隙を見つけてはサボったり逃亡した。バレると大目玉を食らった(大抵バレるのである)。

 彼にはよく怒られた。いちいち何で怒られたのかはもう覚えていないが大抵の場合は習い事をサボったからだと思う。ある冬の月曜日の夜には外へ締め出されたこともある。僕にもプライドや子供ながらの道理もあったのだろう。謝るよりもむくれながら昨日の焚き火の残火に当たってほとぼりが覚めるのを選んだ。しばらくして懐中電灯を持った彼がのしのしと様子を見に来た。暖を取っているのを見届けた彼は「飯ができるからもう少ししたら上がってこい」と言った。ハエ叩きで彼の頭を叩き続けた時も追いかけ回された気がする。水泳ではタイムが悪いことについては怒られなかった。ただ前よりも遅かったりすると小言があったと思う。字が雑だと言われることは多かったが勉強で怒られることはなかった。あれだけ怒る彼だったが手を上げることはなかった。今思えば不思議なことだ。

 祖父は僕が外で遊ぶことを望んだし、多少のやんちゃはむしろ推奨していたような気さえする。川遊び、虫取り、自転車、木登り、球技……。祖父の家は田舎で暇なので気が向いたらここら辺に興じることもあった。他に褒められることといえば音読、肩たたき、庭仕事の手伝い、水泳や縄跳びの記録更新があったと思う——彼は僕の行いがよかったら「りこもん*7」と言うのだった。

 褒美に連れていくの決まってリンガーハットだった——それは僕のルーツが長崎だからなのか餃子が好きだったからかはわからないけど。チャンポンの海老は嫌いだから取り分けて向こうの丼に移した。かまぼこは我慢して食べた。

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 4年生くらいから学校では放課後に週2回ほどクラブ活動があった。僕は本当は友達と一緒にバスケ部に入りたかったけど祖父から屋外運動部にしなさいという圧力を感じた。仕方がないので屋外運動部に入ったのだった。

 祖父はスポーツ観戦全般、その中でも特に野球観戦を好んでいた。週末には福岡まで車で僕を試合観戦に連れていくこともしばしばあった。彼は贔屓にしていた地元球団のソフトバンクホークスのみならず12球団からメジャーの日本人選手の動向も新聞でチェックしていた。僕は彼の野球についての蘊蓄は興味がなかったがルールブックを買い与えられ暇だから読んでいるうちに色々覚えてしまい、教室で選手名鑑を端から端まで読む子供になってしまった。音読で褒められて気を良くした僕は将来の夢をアナウンサーと答えることがあったが、この時期は野球趣味のせいで野球の実況をやりたいと言っていた。

 彼が僕にもたらしたものに比べると僕が彼にもたらしたものは少ない。夕食の最中、箸を置いてテレビに夢中になると「行儀が悪い」と叱られた。当時僕はお笑い番組にハマっていた。食事中はお笑い番組にのめり込む僕を嗜めた彼だったが、知らぬうちにお笑い番組に詳しくなり知識量で僕を凌駕するまでになった。彼は時々自作のギャグを披露することがあったがその出来は下の下だったと思う。自慢のギャグはアホウドリに因んで「アッホー鳥が100羽」だった。

 僕のアナウンサーや野球実況者(そして密かにお笑い芸人)への憧れは彼も知るところだったが、僕自身、本心では漠然と自分も先生になるものだと思っていたところがある。別に祖父からそんなことを言われたこともないし、仕事の話もほとんど聞いたことはなかったのに。

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 野球以外の遠出には釣りの思い出が挙げられる。教員時代から釣りが好きだったらしく庭仕事用の納屋には釣り竿が何本か立てかけられていた。僕は虫に触れないので釣り針に餌をつける仕事は毎回彼の役目だった。有明海の干潟でムツゴロウを釣ったことを覚えている。潮干狩りにも山菜採りにも連れて行かされた。毎回自分で採ったものは一口は食べるように言われ、嫌々食べた。

 5年生の頃、週末の高速道路利用料が1000円になる政策があった。祖父はそれに乗じて車で長距離を移動するようになった。先ずは九州各県、ついで中国・四国地方、そして近畿、果てには関東まで車で足を伸ばすようになった。僕も月に1〜2回ほど同乗して遠出を楽しんだ。平日いつもの送り迎えでは後部座席に乗る僕だったが、遠征の時は助手席に座った。文字通り気分だけは運転のフォローをする敏腕助手だった。

 祖父は出発の前日に目的地の住所を全てナビに登録しておく人だった。温泉、史跡、神社仏閣、名勝……。このように行き先は老人の趣味だった。小学生の僕が喜ぶ場所はあまり見当がつかなかったのだろうか。連れていってくれた中で最も子供らしい行き先は島根の水木しげるロード*8だった。

 何にせよ僕にとって重要なのは目的地じゃなくて道中それ自体が楽しかったんだと思う。慣れてくると僕たちはサービスエリアや道の駅で車内泊をした。福山SAの尾道ラーメンが美味しいこと、安土城跡は拍子抜けするほど何もないこと、窓を閉めて車中泊をするとガラスが結露すること、車にかかった桜島の火山灰は拭くとボディが傷つくから水で流さなきゃいけないこと、それから彼が珍しく好んで聞いた河島英五の話。これらは全部遠征の過程で学んだことだ。

 「遠征」中(旅行と呼ぶには特別・非日常性はなく、お出かけと呼ぶには大掛かりだった)、祖父はデジカメを持ってきていた。大抵は目的地の入り口案内板の前に僕を立たせた構図なんじゃないかと思う。アルバムを見返しているわけではないので推測だが、僕たちは大抵二人ぼっちだったのでツーショットの写真は殆どないはずだ。彼は出かける時に被る地味なサファリハットを「禿げ隠し」と呼んでいた。あんまり隠せてなかったと思う。

 長距離の運転は疲れるものなんじゃないかと思うが、気合を入れた時の彼の体力は見習うべきものがあった。風邪をひいている姿も記憶にない——「腰は痛い」はよく言ってたが。そういう姿を見てきているので、彼が定年を待たずに退職したのも体力的な理由じゃなくて僕が入学することで周囲の先生に気を使ったり、生徒に僕が何か言われないかとか考えてのことじゃないかと思うこともある。後年、I先生にそのことを話すと「本当にきつかったみたいよ」と言っていたが、僕は今でもそんなことを考えるのである。

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 中学校に上がると彼が買ってくれた自転車で通学した。週末は部活があったので毎日のように彼と顔を合わせるということは無くなったが、それでも父親や父親の再婚相手と一緒にいるのが面白くないので時々祖父の家に行った——彼も「嫌になったら来ればいい」と言っていた。このころから病が祖父の体を蝕み始めた。彼は2階の自室に上がるのもしんどくなって1階に居室を移した。そんな状態だったのに庭仕事は自分でやっていた。田舎だったので庭も広く、木の数も10や20じゃなかっただけに大仕事だったはずだ。人間的に幼かった僕は70近い人間がしんどいと口に出す時の疲労具合なんて想像がつかなかった。改めて今考えるとすごい気力だと思う。

 彼は数週間の入退院を繰り返すようになった。何回か病室へ見舞いに行ったが中学生だった僕は依然子供で、病室に足が向かなかった。病室は僕たちにとって非日常的な場所だった。僕たちは普段同じ景色を見ていた。説教の時以外差し向かいで話す間柄ではなかった。だから僕は病室でどう過ごしたらいいかわからなかった。彼も病室にずっといるのは面白くなかったと思う。見舞いに行った時に彼は「イヤホンあるからそれで野球中継見てて良かぞ」と言った。僕はなんで見舞いに来てまで1人でテレビを見なけりゃいけないんだと思ったが、日常に回帰すると言う意味ではテレビでも見てる方がよっぽど正解だったのかもしれない。

 僕が中学2年生の頃、いよいよ病状が思わしくなくなった。すい臓がんだった。医者の宣告で本人はもう長くないことを知っていた。4人兄弟の長男として育てられた彼は親戚一同の中心的存在だったが、彼は退院しては親戚それぞれの家に最後の挨拶に行っていたらしい。僕は人づてに祖父の命が半年以内と告げられていることや本人がその覚悟を持っていることを知らされた。どうしようもなく泣いた。僕は本人から迫り来る死について核心に触れるようなことはとうとう聞かなかった。間接的に祖父の状況を聞かされたのも、きっと祖父がその伝え方を望んで根回ししたことである。彼の口から直接的な話が出たら僕がどうしようもなく泣くことも、それをどう収めたらいいかも僕たちにはわからなかったんだと思う——きっと彼は目の前で泣く僕に耐えられなかった。この時の彼の気持ちを想像すると今でも泣きそうになる。

 秋の夕方、部活をしていた僕は先生に呼ばれて駐車場で家族を待つように言われた。車がどこに向かうかは予想がついた。車内で危篤だと聞かされる。病室に入ると装置に繋がれた彼が目を閉じていた。僕がベッドの横に立って呆然としていると周囲の呼びかけに反応した祖父は目を閉じたまま僕の方に拳を突き出してグータッチを求めた。僕は弱々しく握った拳で、僕よりひと回り大きい拳に応えた。周囲は「耳は聞こえているから話しかけろ。ありがとうと言え」と言う。僕はただ泣いていた。

 それから1週間、親戚一同が顔を出しては代わる代わる病室で付き添った。彼はあれ以来意識を取り戻すことはなかった。僕は学校を休んで連日病院にいたのに、祖父が息を引き取ったのは僕が昼食で席を外している時だった。粛々と葬儀の準備が進んだ。初めての葬式だった。

 親戚代表の弔辞は初孫の僕が読む運びになっていた。あまり気は進まなかったが彼の僕以外の孫、つまり従姉妹と僕は10歳も歳が離れていたし、僕以外で適当な人物はいなかった。葬儀場のスタッフは僕に白い紙を渡し、「『お爺ちゃん』に語りかけるように書いてください」と指示を出した。

 僕たちは大抵二人ぼっちだったので「ねえ」「あのさ」と言えば事が足りた。彼は僕のことをさん付けしたり「あんた」と呼んだが、僕は「爺ちゃん」と呼びかけることはなかった——照れ臭かったのかもしれない。差し向かいで話す関係性でもなかったし「ありがとう」や「ごめん」といった言葉も僕は普段彼にかけたことはなかった——どこに連れて行ってくれても、何を作ってくれても、何を買ってくれても。自分でも施し甲斐がないと思うほどに当たり前にあらゆる恵みを受け入れた。

 中学生の僕は幼稚だった。僕たちだけの思い出・関係性を上手く言語化する術もなく、それでいて読み上げられる思い出の断片で人からわかった気になられるのが嫌だった。当時の僕にとって、彼について語ることは僕自身の全てを語ることとほとんど等しかった。いわゆる多感な時期だったと思う。僕は捨て鉢な気分で作文用紙二枚に収まった紋切り型の弔辞を読み上げた。

 読経が終わり親族として参列者を見送る際、涙が止まらなくなった。修辞法でもなんでもなく、本当に孤独になったという実感が僕を襲った。慟哭する僕に参列していたI先生が同じく泣きながら同情してくれた。僕は彼のために泣いたのではなく、僕のために泣いていた。そのことを情けないと思いつつも、嗚咽は止まらなかった。

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 火葬が終わると日常が僕を迎えに来た。1週間ぶりに学校へ復帰すると、廊下ですれ違った部活のキャプテンが薮から棒に「しばらく休んでたな。お爺さんが亡くなったんだろ」と言った。今思えば中学生としては十分な、彼なりの弔意だったのだが僕は彼の表情とその口調が癇に障った。考えるよりも先に「お前には関係ないだろ」と言い放っていた。彼も僕の八つ当たりに気を悪くした。右ストレートと自慢のコンビネーションが飛んできた。

 鈍痛に襲われながら僕はキャプテンの気持ちを推測した。結局僕は他人が汲んでくれるはずのない感情を根拠に発言していたのだと結論した。感傷に浸ることなく世界と折り合いをつけなければいけないと考えるようになった。荒療治の是非はわからないが人には勧められない。

 当時は大事な存在について、何らかの媒体に書くといったことは考えもしなかった。きっと考えついたとしても文章力が追いつかなかったと思う。大事な存在についての伝え難い感傷・抒情をわかって欲しいのに、伝わることに期待してはいけないというアンビバレントな発想はいまだに尾を引いている気がする。

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 思い出を振り返ると、最近になって彼についての新しい解釈や自己の反省点が出てくる。彼はクリスマスが来るたびに「うちは仏教ぞ」と言った。彼の母親だか祖母の命日がクリスマスだと知って彼にもセンチメンタルな一面があったのかしらと思うようになった。今回も料理の話を振り返っているうちに彼が料理教室に通うなどして研究していたのはそれを食す僕のためだったのだろうかという意外な可能性に気づいた。また、遠征の時に行きたい場所の提案をしたり道中楽しんでいることを表現したりしてあげたらよかったのにと思う。

 彼は最後の病室に新品の便箋集とペンを持ち込んでいた。彼は僕にその便箋で何か書き残そうとしたまま、実際には一言も書き残す事なく意識を失った。誰かに口述筆記でも頼めばよかったのになどとも思ったが、誰にも聞かれたくなかったのだろうか。彼が死んだ後の数年間、僕は夢で会う彼にあの時書き残そうとしたメッセージを聞くくだりが複数回あった。フロイトユングも知らないが当時の僕は生きる指針のようなものを書かれなかった手紙に見つけられたらと思っていたのかもしれない。

 今は病身の彼がペンを持つのはどれほど困難だったろうとか、言いたい事が簡単にまとまる筈がないといった考えが浮かぶ。僕が今亡くなった彼について書く事以上に、これからも生きていく僕に言葉を残すことは困難で恐ろしいほどに重大な作業だと思う。今となっては何も書き残さないでくれてありがとうと思う。仮に一時期の指針になるような事が書かれていたとしても、それが一生涯の人生の頸木になるのだから。

終わりに

 少し湿っぽくなってしまった。彼は3、4歳の孫娘に「お祖父様」と呼ばせては喜んだ。僕はそれを気持ち悪いと思っていた。古い写真には30〜40代の祖父が運動会の練習を仕切る風景が残されていた。法被を着て頭に鉢巻を巻いた彼は、僕が生まれるずっと前から禿頭で眩しそうに仏頂面で目を細めていた。彼は秋になると庭の柿を集めて干し柿の簾を作った。僕はそれを老人趣味だと思っていた。初代タイガーマスク、「絶好調」中畑清*9ピンクレディー*10……彼の口にする固有名詞はいつも古臭かった。家族や教員時代の同僚は彼を筋の通った人と誉めるがそうした事柄は僕にとって彼の一部に過ぎなかった。

 以前、10年ぶりに顔を合わせた母親が「あんたのことを10年間、1日たりとも忘れたことはない」と言っていたが僕はそれをいくらかの優しさと罪悪感から出た出来の悪い嘘だと思う。人間の感情は持続しない——あるいは僕が忘れっぽいだけだろうか?。僕たちは大切な存在であろうと忘れたくなることもある。生活に追われて忘れることもある。それでも僕たちは未整理な思い出の堆積物として生きつづける。日課のように思い出すことも悪くないだろうけど、ふと自分の中に顔を出す彼らの面影を——年月を経ても——愛おしむこともきっと同じくらい大切だと思う。

 目の前の世界に時々祖父の影を見る。例えば『西の魔女が死んだ*11を読む時。大学の先生*12とお話しする時。張本勲*13がニュースになる時。

 あるいは——きっと自覚できないレベルであっても——僕たちの内面はそうした存在との交流なしでは説明ができないものである。もし彼らのことを忘れても、意識しなくとも僕たちは大切な存在なしではあり得なかった存在として生きていく。僕たちは大切な存在や面影との連続体である。そう自分を見なすことでどうしようもない自分のことも少しずつ大丈夫だと思えることもある。

 長くなってしまった。首尾一貫しない雑文にも何かしらの意義はあり得るだろう。そもそも形而下では存在それ自体が首尾一貫しないのだから。

*1:イワシの幼魚を煮て干したもの。にぼし。

*2:「烏とかに襲われるんじゃない?」と危惧する僕に彼は「それはそれでいい。自然ってそう言うものだ」と言うようなことを言った。彼がグレーのプリウスでどこかの熱帯魚コーナーに行き金魚を2匹家に持って帰った様子を想像するとなんだか可笑しい。

*3:僕が20歳になった頃の話だが、地域の美容院に初めて行った時に美容師が「もしかして〇〇小学校にいらっしゃいました? 私、よく遊んでた△△と××(上級生の女の子たち)の友人で。お父さんかお爺ちゃんが先生でしたよね」と話しかけられたことがある。すごく驚いた。「私、運動会の副団長だったんですよ(覚えていなかった)。24になった△△は阿蘇にお嫁に行って、××ちゃんは今もあの辺りに住んでますー。そうそう、同級生で◎◎ってご存知ですよね。私は彼女のお姉ちゃんと同級生だからよく会うんですよ。カットモデルにもなってくれるし……。」とカットされながら美容師の地元トークを聞いた。その美容院には気恥ずかしくて行けなくなったが懐かしい気持ちとともに世間は狭いなと実感したのだった。

*4:方言で「全然」の意味。

*5:方言で「加勢」「手伝い」

*6:「このお腹のような枕を商品化すると売れる」の意。

*7:方言で「利口もの」の意味

*8:水木しげるの描いた妖怪のオブジェ等がさまざま並ぶ商店街。当時のNHKの朝ドラでは水木しげる夫妻を扱う「ゲゲゲの女房」が放映され、ゲゲゲの鬼太郎ブーム? だった。

*9:1970~80年代に読売巨人軍で活躍したプロ野球選手。マイクを向けられると「絶好調」と明朗に喋ることで知られていた。

*10:有名曲UFOに因んでAHOというギャグを披露して、その説明を自分でしていた。

*11:学校に馴染めなくなった中学生1年生の「まい」が「魔女」と呼ばれる祖母と過ごしたひと月あまりの生活を描いた小説。「魔女」は「まい」が両親と住む家から車で結構な時間がかかる西方の田舎に住んでいる。2人はそこでサンドイッチを作ったり、野いちごを煮詰めてジャムを作ったり、ラベンダーの茂みに手洗いのシーツを干したり……。ページをめくる毎につつましくも憧れるような生活と多感な時期を過ごす「まい」の成長が広がっている

*12:例えば先日このような事があった。用事で大学に居た春休み、——失礼千万だが——アポ無しで授業でお世話になっていたO教授の研究室にお手すきか伺うと教授は快く僕を研究室に上げて下さった。本に囲まれた研究室で二人っきり。「まあ座れや」から「また遊びに来てよ」まで1時間、教授は僕が勧められた本を読んだ感想を聞いてくれ、次に読むべき本の紹介や進路の相談にまで乗ってくれた。祖父は僕が長崎に修学旅行から帰ってくると「俺は修学旅行は何回も行っとるんだけん。見どころがどことか聞きにこんね」と不満を漏らしたが、今回は——教授相手だが——質問しに行って良かったなと思った。僕は親切に教えてくれる人に祖父の面影を投影する。

*13:80歳近い元プロ野球選手。生涯安打数はイチローに次ぐ歴代2位の記録を持つ大打者。テレビ番組「サンデーモーニング」での辛口コメント「喝」でよく知られる。彼自身この番組を好んで見ていたし、何より顔が似ている。