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哲学ではなく、哲学者を

 政治思想・政治哲学のゼミに入っていると哲学の古典を輪読する機会もある。ニーチェハイデガーフッサール……。ベンサムやルソーは政治思想的だが、先に挙げた人たちは典型的な形而上学的な思弁を云々する哲学者である。

 最近思うことは自分は哲学にうんざりしている、ということだ。形而上学人間性を感じない。飽きてしまった。僕は哲学よりも文学に興味が移ったといってもいいかもしれない。やや脱線だが、同じ哲学でも西田幾多郎の『善の研究』にはどこまでもつきまとう人間臭さみたいなものがあって好きだった。人間臭さを文学的と呼べば西田の根底には文学的なエネルギーが流れている——僕は文学性においてニーチェのような文筆能力を主要の問題としない。

 思い返せば僕が好きだったのは哲学じゃなくて哲学者だった。形而上学存在論じゃなくて倫理や表層的な実存の問題だった。哲学じゃなくて生活を問題にしたい。例えばカミュがシーシュポスの神話で「哲学の主要の問題は形而上学を云々することじゃなくてなぜ自殺をしないかである」みたいなことを書いていたと思うけど、それは正当な主張だと思う。僕たちは常に生活をしている(これも脱線だが、このエッセイのカミュは邪推したくなるほどに自殺願望に対する解像度が高い)。

 哲学者の生い立ちや諸々が彼らの主張にどう作用したのかを考えることが好きだった。その点で第二次世界大戦を経験した20世紀の哲学者がどう生きていたのかが自分の関心だった。その点でドイツ軍によるフランス占領の初期からレジスタンス活動をしていたカミュは歴史に名を残すべくして名を残していると思う。

 哲学に飽きてしまった。それは大人になったということかもしれないし、生活に追われているということかもしれない。満たされていないという気持ちが薄らいだのならば幸せになったのかもしれない。哲学についての造詣は浅く、理屈屋なところだけが残った。