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現代詩における幼児性と身体性、主観性にまつわる一考

 代議士が自分とは違う属性やバックグラウンドの人たちを代表しうる様に、文学も自分とは違うバックグラウンドを持っている人も代表できるだろう。その点、現代詩には己の実存や身体性といったものの称揚に止まってほしくない。

 シュルレアリスム宣言でブルトンが書いている様に、20世紀前半の彼らは子供に無責任性というものを見て、既存の倫理道徳にとらわれない意識というものを讃えようとした。僕が思うのは、先の文章の後半はともかく、前半はあまりにもナイーヴな人間観だということだ。子供はよく親を見ており、大人の顔色を窺っている。時に打算的であり、いたずらで周囲のキャパシティを試している。子供特有の行動・コミュニケーションだと思っているものは大抵の大人にも見出せるはずだ。子供について前提の怪しいブルトンの論理は「子供は無責任である(責任を逃れている)。ゆえに子供は無責任である」というトートロジーの匂いを感じる。

 例えば、雨の日の老人の古傷の痛みや孫と月に一回会うことが最大の楽しみの老人が子供の発熱で会う予定をキャンセルされた時の気持ちを僕たちはどれほど切実に想像できるだろうか。子供に対する憧憬は結構なことだが、僕たちに足りないのは往々にして老人についての想像力だろう。

 僕たちの文学は一つ一つが全体の部分集合に過ぎない。その作品でしか救い難い人もいればまったく関心を持たれないこともあるだろう。その点で主観性・身体性といったものに注目がいくのは当然だが、僕はさらに想像力を持って間主観性といったものに手を伸ばせると信じるのである。今まで僕が書かずに済んだことの一つ一つ、取りこぼしてきたものや拾われなかった感動や無念に思いを馳せてみるのである。

 ブルトンの幼児の捉え方はナイーヴなものだ。ただそれ以上に文学が自分とは違うバックグラウンドを持っている人も代表できるという立場の方がナイーヴだろうか。