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ブログという名の文体練習

能がわからない

 「チケット余ってるから来ない?」と旅行中の友人に誘われた僕は銀座にある観世能楽堂の一番安い席に座っていた。夏休みだった。

 

Noって何?

 8月9日、上野の美術館で意気投合した僕と旅行客は展示を見終わった後に近くのカフェでサンドイッチを食べていた。

「能、行ったことある?」

「No?」

 つまらないギャグを言いたかったわけじゃない。「能。伝統芸能の」と言われ、ようやく漠然としたイメージが浮かぶ——檜舞台で着物を来た人たち。何かの教科書で見た気がする。

「チケットが余ってるから来ない? 元々誘ってた人が来れなくなったから。お代はいらないし」

 夏休みの真っ只中だった僕はありがたいお誘いに甘えた。翌日の13時開演に間に合うよう現地集合の約束をした僕たちは上野駅の改札で別れた。

 

開演

 新橋駅に向かう車内で、昨日の旅行客からPDFが送られてきた。今日の演目「井筒」のシナリオだった。PDFの右側は現代の日本語、左側は訪日観光客向けの英語で書かれていた。後から聞くところによると「井筒」はメジャーな演目らしい。PDFは能を紹介するサイトか観世能楽堂のHPで拾ってきたのだろう。

 劇中で現れる登場人物は旅僧と女の霊、そして現地の村人の3人だった。旅僧は訪れた先で昔語りの情愛深い夫婦について喋る女と会う。しばらく後にその女が昔語りの中の妻本人の霊だとわかると、村人が僧にその霊を慰めるように依頼する話だった。

 会場に入り、チケットを見せてホールまで通される。二重扉になったホールの中には唐突に古風な屋敷が置かれていた。相撲の中継で見たような、大河ドラマで見たような建物の正面とその左側に座席が広がっている。一番安いチケットを持った僕たちは舞台から少し離れた壁際左側の席に着いた。時刻になる。雅楽の笛が鳴り出した。

 

眠い

 作品の舞台であり、作中で重要な役割を為す井筒(井戸の囲み)が設置される。舞台の左側の通路から旅僧らしき人がすり足でゆっくり現れ、壇上には10数人が並んだ。男性が何かを喋るのだが、それは現代語ではない何かである。なぜ能の演者は泣きながら怒る子供のように声を震わせ、いきなり大きく喋るのだろう。

 10分ほど経っていただろうか。壇上の人物全てがぎっくり腰のようにゆっくり動くうちに僕は眠りに落ちてしまった。隣の席の男が「チケット代分くらい楽しんでくれよ」と言わんばかりに足で僕の足を小突いて笑った。顔を上げると後ろからもいびきが聞こえた。何もかもがゆっくり進む。僕は能楽よりもホールの中に建てられた舞台が建築法ではどういう扱いなのかが気になっていた。

 

サビに突入

 能面を付けた女が舞台袖から同じくすり足で現れる。舞台上には笛吹と2種類のパーカッショニストが控えていた。能面の女と旅僧の問答が行われると笛もパーカッションも鳴り出した。「ヨー」「ハッ」「アウォー」と高さや長さを変えながらパーカッショニストが言葉を交わす二人に合いの手を入れる。太鼓は左側の人が積み木を鳴らしたような硬い音を、右側の人はお腹を叩いたような音を出し、二人でポリリズムを奏でる。僕たちの席からは右側の太鼓の人が舞台の柱に隠れて見えない。これがチケットの値段の理由なのだろうと思った。

 耳が慣れると、旅僧なり能面の女なりがアカペラのソロで喋るところは何となくわかるのだが、舞台上にはコーラスの人もおりユニゾンを聴かせる。サビになり不思議な合唱が展開されると、話は何のことかわからない。少し静かになり、能面の女がゆっくりと舞台袖に引き下がる。コーラスの人たちもきちんと直り、正座で手をポケットに入れた。僕は電車で呼んだシナリオを思い出していた。

 女の静かな退場中、舞台の軋む音と誰かのいびきが聞こえた。舞台の沈黙とは裏腹ないびきを誰かが笑った。後ろではさっきまでいびきをかいていたおじさんまでもが笑っていた。

 

クライマックス

 舞台が進むと一度下がった能面の女がお色直しをして再登場する。さっきとは違う帽子をかぶっていた。それをかぶった女は正面から見るとヴァイオリンのようだった。能面の女がゆっくりとした舞を踊り、何か言葉が交わされ、そして初めての能劇は終わった。舞台の10数人がゆっくりと退場する間も観客は静かにしていたが、やがて誰かが手を鳴らし、それに拍手が続いた。

 能が演じられた時間は1時間半くらいだろうか。その後に短めの狂言が続いた。コーラスも笛吹もパーカッショニストもいない。演者は舞台を歩き回り、ハキハキ喋る。僕にも聞き取れる内容であり、笑いどころでは客席から笑い声が生まれた。