月曜日の昼下がり、大学で野暮用を済ませた僕は荷物をまとめ、駅側の眼科に向かった。時刻は14時。気温も聞きたくないような暑さだった。
眼科は大学から10分歩いたビルにある。狭いエレベーターで2を押すと目的の階に着く。眼科の入り口には「午後 診察受付14:45〜」と書かれていた。昼休憩が明けるまで30分以上あった。
この炎天下の中、大学までもう1往復する気にはならなかった。僕は通路に2つ出されたパイプ椅子に腰掛けた。本を開いていると、数分後にエレベーターが開いた。左目を病んだ婆さんが傘を杖代わりにしている。ゆっくりと僕の横の椅子に腰掛けた。
「暑いですね」
「……そうですね」
「あそこ、診察担当者の表。女性の人ですか?」
「なってますね」
「私、毎回あの人に見てもらってるからいつも午後にしか来れないの」
婆さんは少し俯いて一息ついた。婆さんの膝の上にはビニール袋で覆われた紙袋が置かれていた。紙袋にプリントされたロゴが少し透けていた。
「それ、もち吉っすか?」
「え? あぁ、そうなのよ。私、月に一回詰め合わせを買って、余ったら人に配ってるの」
「自分、出身九州なんでもち吉のお店、あっちでよく見かけました。懐かしい」
「そうなの。ここの会社、直方*1ってところにあるらしいの。ほら。お相撲さんの魁皇が出身の」
「カイオウですか」
「私、相撲好きだから」
後で調べると12年前に引退した有名な力士らしかった。僕たちが黙ると通路には扇風機の羽の音だけがする。
「私も昔、九州に旅行したことがあるんですよ。50年以上前ですけどね。もう行くことはないでしょうけど。福岡の太宰府、大分の湯布院。それから鹿児島の桜島と熊本から長崎に向かうフェリー。あっちは雨がすごいですよね。大雨の中フェリーが出航して、木の葉みたいにはらはらと海を渡っていくから大丈夫かしらって心配になりましたよ。あっちは本当に雨がすごいですよね。ニュースで九州の水害とかみるとわかる気がするわ」
「結構色々行きましたね」
「色々行ったの。一週間くらいだったかしら。あそこにも行ったわ。川下りの柳川。ほら、お相撲さんの琴奨菊が育った」
「相撲っすか」
「そう。九州は結構お相撲さんいますね」
「……まぁ」
相撲は門外漢なのでわからなかった。
「今、何時ですか」
「……あと30分くらいですね」
やがて別の婆さんがやって来て、僕は新しい婆さんに席を譲った。15時になり、診察が始まる。僕より先に診察を終えた最初の婆さんが「ありがとうございました」と僕に声をかけに来た。僕は煎餅の一枚でもくれるかなと思ったが、婆さんはそのまま帰ってしまった。
*1:「のおがた」と読む。福岡の地名