becauseofthe3のブログ

ブログという名の文体練習

「授業参観シンドローム」と「飲食店の喫煙所シンドローム」

 友達にもいろんなタイプの人がいる。ある人の場合、普段は僕に気を遣ってくれているのか言葉遣いも優しいが、僕の他に初対面の人がいると僕に悪態をつくことがある。人見知り故にテンパってしまうのか、何なのかはわからないがそういう場面でチクリと言われると多少傷つく。「そこまで言わなくてもいいじゃん」と言いたくなったり、普段との差に戸惑ってしまう。ただ、そう言わせているのはある程度僕自身の振る舞いなのだろう。自分ではわからないが、他の人がいることで僕自身の振る舞いもいつもの友人に対してのものとは変わってしまっているのかもしれない。そう考えるといつもと違う僕にかける言葉がいつもと違うのは当たり前だ。

「こいつ、変な奴だから」

「この人、全然大したことしてないですよ」

 「うちの愚息が」「うちの愚妻が」みたいなものに通じるのだろうか。だとしたら一種の礼儀正しさなのだろうか。二人きりで会うことの多い人と他所のコミュニティに行って変な感じになる現象を「授業参観シンドローム」と呼びたい。

 今度は少し別の話だが、同じコミュニティにいる人と喋っていると共通の知り合いの噂話になることがあり、それがあまりいい趣味と思えずやめたいと思うことがある——つい話してしまいなかなかやめられないのだが。本当は最近見た本や映画の感想とか、今頑張っていることの詳細を話したり聞きたい。

 時々詩のコミュニティで詩論を浴びることがある。必ずしも内容に共感するわけではないが、たまにはそういう熱量が心地いい。ただ、そういう人とも毎日のように会うとつまらない会話をする関係になるのだろう。つまらない会話をするくらいならたまにしか会わなくていいと思うのは極端だろうか。コミュニティを同じにする人と毎日会うことでつまらない会話に陥ってしまうことを僕の経験上「飲食店の喫煙所シンドローム」とでも名付けておく。「授業参観シンドローム」はともかく、「飲食店の喫煙所シンドローム」は自分も会話に参加している事実が僕を辟易させる。

 どうも、疲れているのかもしれない。いろんな人と一緒に動いて映画を撮り終えたばかりだ。「授業参観シンドローム」もあったし、「飲食店の喫煙所シンドローム」もあったかもしれない。撮影は楽しいこともあり大いに刺激になったが、体力的にも気力的にも疲れはあった。そんな状況だからこんなことを考えるのだろう。

眼科患者の婆さん

 月曜日の昼下がり、大学で野暮用を済ませた僕は荷物をまとめ、駅側の眼科に向かった。時刻は14時。気温も聞きたくないような暑さだった。

 眼科は大学から10分歩いたビルにある。狭いエレベーターで2を押すと目的の階に着く。眼科の入り口には「午後 診察受付14:45〜」と書かれていた。昼休憩が明けるまで30分以上あった。

 この炎天下の中、大学までもう1往復する気にはならなかった。僕は通路に2つ出されたパイプ椅子に腰掛けた。本を開いていると、数分後にエレベーターが開いた。左目を病んだ婆さんが傘を杖代わりにしている。ゆっくりと僕の横の椅子に腰掛けた。

「暑いですね」

「……そうですね」

「あそこ、診察担当者の表。女性の人ですか?」

「なってますね」

「私、毎回あの人に見てもらってるからいつも午後にしか来れないの」

 婆さんは少し俯いて一息ついた。婆さんの膝の上にはビニール袋で覆われた紙袋が置かれていた。紙袋にプリントされたロゴが少し透けていた。

「それ、もち吉っすか?」

「え? あぁ、そうなのよ。私、月に一回詰め合わせを買って、余ったら人に配ってるの」

「自分、出身九州なんでもち吉のお店、あっちでよく見かけました。懐かしい」

「そうなの。ここの会社、直方*1ってところにあるらしいの。ほら。お相撲さんの魁皇が出身の」

「カイオウですか」

「私、相撲好きだから」

 後で調べると12年前に引退した有名な力士らしかった。僕たちが黙ると通路には扇風機の羽の音だけがする。

「私も昔、九州に旅行したことがあるんですよ。50年以上前ですけどね。もう行くことはないでしょうけど。福岡の太宰府、大分の湯布院。それから鹿児島の桜島と熊本から長崎に向かうフェリー。あっちは雨がすごいですよね。大雨の中フェリーが出航して、木の葉みたいにはらはらと海を渡っていくから大丈夫かしらって心配になりましたよ。あっちは本当に雨がすごいですよね。ニュースで九州の水害とかみるとわかる気がするわ」

「結構色々行きましたね」

「色々行ったの。一週間くらいだったかしら。あそこにも行ったわ。川下りの柳川。ほら、お相撲さんの琴奨菊が育った」

「相撲っすか」

「そう。九州は結構お相撲さんいますね」

「……まぁ」

 相撲は門外漢なのでわからなかった。

「今、何時ですか」

「……あと30分くらいですね」

 やがて別の婆さんがやって来て、僕は新しい婆さんに席を譲った。15時になり、診察が始まる。僕より先に診察を終えた最初の婆さんが「ありがとうございました」と僕に声をかけに来た。僕は煎餅の一枚でもくれるかなと思ったが、婆さんはそのまま帰ってしまった。

*1:「のおがた」と読む。福岡の地名

能がわからない

 「チケット余ってるから来ない?」と旅行中の友人に誘われた僕は銀座にある観世能楽堂の一番安い席に座っていた。夏休みだった。

 

Noって何?

 8月9日、上野の美術館で意気投合した僕と旅行客は展示を見終わった後に近くのカフェでサンドイッチを食べていた。

「能、行ったことある?」

「No?」

 つまらないギャグを言いたかったわけじゃない。「能。伝統芸能の」と言われ、ようやく漠然としたイメージが浮かぶ——檜舞台で着物を来た人たち。何かの教科書で見た気がする。

「チケットが余ってるから来ない? 元々誘ってた人が来れなくなったから。お代はいらないし」

 夏休みの真っ只中だった僕はありがたいお誘いに甘えた。翌日の13時開演に間に合うよう現地集合の約束をした僕たちは上野駅の改札で別れた。

 

開演

 新橋駅に向かう車内で、昨日の旅行客からPDFが送られてきた。今日の演目「井筒」のシナリオだった。PDFの右側は現代の日本語、左側は訪日観光客向けの英語で書かれていた。後から聞くところによると「井筒」はメジャーな演目らしい。PDFは能を紹介するサイトか観世能楽堂のHPで拾ってきたのだろう。

 劇中で現れる登場人物は旅僧と女の霊、そして現地の村人の3人だった。旅僧は訪れた先で昔語りの情愛深い夫婦について喋る女と会う。しばらく後にその女が昔語りの中の妻本人の霊だとわかると、村人が僧にその霊を慰めるように依頼する話だった。

 会場に入り、チケットを見せてホールまで通される。二重扉になったホールの中には唐突に古風な屋敷が置かれていた。相撲の中継で見たような、大河ドラマで見たような建物の正面とその左側に座席が広がっている。一番安いチケットを持った僕たちは舞台から少し離れた壁際左側の席に着いた。時刻になる。雅楽の笛が鳴り出した。

 

眠い

 作品の舞台であり、作中で重要な役割を為す井筒(井戸の囲み)が設置される。舞台の左側の通路から旅僧らしき人がすり足でゆっくり現れ、壇上には10数人が並んだ。男性が何かを喋るのだが、それは現代語ではない何かである。なぜ能の演者は泣きながら怒る子供のように声を震わせ、いきなり大きく喋るのだろう。

 10分ほど経っていただろうか。壇上の人物全てがぎっくり腰のようにゆっくり動くうちに僕は眠りに落ちてしまった。隣の席の男が「チケット代分くらい楽しんでくれよ」と言わんばかりに足で僕の足を小突いて笑った。顔を上げると後ろからもいびきが聞こえた。何もかもがゆっくり進む。僕は能楽よりもホールの中に建てられた舞台が建築法ではどういう扱いなのかが気になっていた。

 

サビに突入

 能面を付けた女が舞台袖から同じくすり足で現れる。舞台上には笛吹と2種類のパーカッショニストが控えていた。能面の女と旅僧の問答が行われると笛もパーカッションも鳴り出した。「ヨー」「ハッ」「アウォー」と高さや長さを変えながらパーカッショニストが言葉を交わす二人に合いの手を入れる。太鼓は左側の人が積み木を鳴らしたような硬い音を、右側の人はお腹を叩いたような音を出し、二人でポリリズムを奏でる。僕たちの席からは右側の太鼓の人が舞台の柱に隠れて見えない。これがチケットの値段の理由なのだろうと思った。

 耳が慣れると、旅僧なり能面の女なりがアカペラのソロで喋るところは何となくわかるのだが、舞台上にはコーラスの人もおりユニゾンを聴かせる。サビになり不思議な合唱が展開されると、話は何のことかわからない。少し静かになり、能面の女がゆっくりと舞台袖に引き下がる。コーラスの人たちもきちんと直り、正座で手をポケットに入れた。僕は電車で呼んだシナリオを思い出していた。

 女の静かな退場中、舞台の軋む音と誰かのいびきが聞こえた。舞台の沈黙とは裏腹ないびきを誰かが笑った。後ろではさっきまでいびきをかいていたおじさんまでもが笑っていた。

 

クライマックス

 舞台が進むと一度下がった能面の女がお色直しをして再登場する。さっきとは違う帽子をかぶっていた。それをかぶった女は正面から見るとヴァイオリンのようだった。能面の女がゆっくりとした舞を踊り、何か言葉が交わされ、そして初めての能劇は終わった。舞台の10数人がゆっくりと退場する間も観客は静かにしていたが、やがて誰かが手を鳴らし、それに拍手が続いた。

 能が演じられた時間は1時間半くらいだろうか。その後に短めの狂言が続いた。コーラスも笛吹もパーカッショニストもいない。演者は舞台を歩き回り、ハキハキ喋る。僕にも聞き取れる内容であり、笑いどころでは客席から笑い声が生まれた。

 

 

 

あの夏、あの部屋での生活

 今年もうんざりするような暑さがやってきた。死にたくなるほど美しい青空に入道雲が立ち込める。運転免許を持たない僕は空調の効きが悪い車の後部座席からそんな油絵のような空を眺めている。

 出不精な僕にも夏の思い出はあって、何もかもがどうでも良くなるこんな晴天に思い出す友人がいる。18歳の頃に地元の予備校で出会った同い年のOというやつだ。垂れ目で、中肉中背。170cmの僕よりほんの少し背が高かったかもしれない。入道雲のように白いユニクロのTシャツにジーンズを合わせていた、気もする。

 県内一の進学校出身の彼とは共通の友人を介して顔見知りになった。小学校のスイミングスクールで一緒だったと言われればそんな気もするような顔を彼はしていた。眠たそうな一重瞼にサラサラの髪が七五三の子供のようなカット。大きい本屋に行けば店員に一人はいそうなやつだった。

 知り合いの知り合いに過ぎなかった彼は僕に変なあだ名をつけようとしていた。「君は多分ノンポリだからノンポリと呼ぶ」みたいなことを言っていた。実際には2回くらいしかそう呼ばれなかった。

 その頃の彼は音楽熱が高まっていた。彼はロックを、僕はジャズを聴いていた。まだ僕たちの周りでは音楽ストリーミングサービスが盛んではなかったので彼は50年代のオールディーズと呼ばれるようなロックの古典や60年代のプログレッシブ・ロックのCDを買い集めていた。

 聴かされたのか、僕が貸してと言ったのか、彼のCDを借りて聴くようになった。その時にPink FroidのMeddleというアルバムを借りた。彼はアルバムを貸す時に「このアルバムのジャケット、体の一部をデザインしているけど、返す時にどの部分か当ててみて」と言った——「ネットで調べるのとかは無しで」と付け加えながら。

 僕がCDを返した後、「ジャケットにパスタソースが付いていた」とクレームを受けたのを覚えている。音楽という共通の話題ができてから、僕たちは知り合いの知り合いではなくなった。当時、僕は予備校から徒歩数分のアパートで一人暮らしをしていた。和室の1K。階層は4階か5階だった。「今いる?」といったメッセージが来る。彼が部屋の前に来る。僕は彼を部屋に上げるようになった。一人暮らしを始めたばかりで不健康な生活。その罪滅ぼしにと常飲していた野菜生活を訪れる彼にも提供していた。

 サボりがちだった予備校に行くと僕は彼が昼飯を抜いて貯金に充てているのを見た。「マンドリンを買う」と言っていた。それからしばらくして彼は僕の部屋にマンドリンを持ってきた。ある時は新品のハーモニカも見せてくれた。

 Oはトレモロアームのついたメキシコ製のストラトキャスターを持っていた。荷物なはずなのに時々彼はそのギターを担いで僕の部屋で弾いた。どういう事の運びか忘れたが、僕もベース一式とアンプを買って部屋に置くことになった。フェンダージャズベース。結構いい値段した気がする。

 僕にベースを真面目にやる気があったのはほんの一瞬で、彼の方がよっぽど僕のベースを弾いていた。貼りっぱなしにしていたボディの透明な保護シートを剥がしたいと彼は言っていた。

 部屋にアンプが置かれたことで彼のストラトキャスターも活き活きとした音色を奏でるようになった。畳の部屋には洗濯物干しと本棚、彼が来る時だけたたまれた寝具、そしてアンプとベースギター。僕たちは酒を飲まなかったので野菜生活を片手に予備校をサボった。

 当時の僕は実家と折り合いが悪かった。彼も実家にはほんの少し思うところがあったのかもしれない。あるいは僕に話を合わせてくれていたのかもしれない。彼の親は医者だった。Oの二人の兄は有名大学に通っていた。母親にそうした兄たちと比べられるのが嫌だとほんの少し言っていた気がする。一人っ子の僕はあまりその感覚がわかってあげられなかった。

 僕は春夏の時点で相当に予備校をサボりまくっていた。彼も結構サボっていたと思う。夕方を僕の部屋で過ごすことも多かった——あんまり早く帰ると親に怪しまれるからだろうか。

 ビートルズにWith the Beatlesというアルバムがある。モノクロに4人の顔が大きく写っているジャケットだ。僕たちはそのジョン・レノンの顔が大きいと言って笑っていた。彼はRubber Soul というアルバムも持ってきた。その中の一曲、「Nowhere Man という曲が君にはいいよ」と言って僕に貸した。僕はDrive My Car という曲の方が好きだった。

 彼は近くのインドカレー屋に行きたいと言っていた。食わず嫌いの多い僕は約束を先延ばしにしていた。そのうちに彼は一人で食べに行った感想を話していた。暑くて何もする気が起きない夏だった。カレーを食べるなんてもってのほかだった。

 ある時、彼が買い物がしたいと言って自転車で近くの市内の音楽店をいくつか一緒に回らされた。何を買いたがっていたのかは覚えていないが2、3件回り、次の店へと向かっているだった。疲れた僕は道を間違えたふりをしてそのまま帰った。暑かった。僕は彼が来るかもしれないと思って玄関の鍵を閉めずに昼寝をした。彼は来なかった。

 うんざりするような暑さに見舞われると、そんな数年前の夏のことを思い出すことがある。

おわり

 それから夏が明けるまで、僕とOは会わなかった。僕は相変わらず予備校の夏期講習にはほとんど顔を出さず、秋の講習も同じような具合だった。夏が終わるとOの志望校は地元の旧帝大理系学部じゃなくて都内の私立大学文系学部に変わっていた。

 僕は勉強も受験もすることなく、無気力に残りの半年を過ごした。Oは前みたいにサボりに来ることが減った。結構勉強を頑張っていたのかもしれない。

 彼は大学一年生になった初めての夏、帰省のついでに僕のアパートを尋ねたことがあった。僕はその時すでに実家に戻っていたのでアパートはもぬけの殻だった。あれから携帯を変えたりしたうちに彼の連絡先も無くしてしまった。熱に浮かされて買ったベースギターも実家に置いたまま僕は上京した。あまりに弾かないのでネックは反り返っているかもしれない。そんなことを思い出して、僕は当時と同じようにきのこ帝国を聴いている。彼は聴かないだろう。

(2023年7月17日)

なぜわたしはこんなに悪文を書くのか

 ニーチェの自伝的著書に『この人を見よ』というものがある。1888年ニーチェ44歳の時の著作であり、岩波文庫から邦訳も出ている。この本の目次は以下のようになっている。

  • 序言
  • なぜわたしはこんなに賢明なのか
  • なぜわたしはこんなに利発なのか
  • なぜわたしはこんなによい本を書くのか
  • 悲劇の誕生
  • 反時代的考察
  • ……(以下、彼の著作名が続く)

 

 本文の大半を多くを占める著作解説パートはともかく、冒頭の3章はよくこんなタイトルで本を書けるな、と呆れ半分で感心する——もっとも僕はニーチェの著作をあまり楽しい気持ちでは読めないが。

 僕も何かを書くことに恋々としている。高校生の頃は短いエッセイを書き、いつか哲学書を書くことを夢見た。大学に入った頃は誉めそやされるような小説を生み出すことを夢想して、実際はバイト先で広告漫画のシナリオ作成に追われた。小説を書くことを半ば諦めた今は読むに堪える詩を書き上げたいと思っている。これらをそれぞれ哲学期、小説期、現代詩期と呼ぶことにする。

 哲学期以前の僕は書くことに何のこだわりも持っていなかった気がする。哲学期の関心は「なんのために生きるのか」だった。そんな考えに僕を誘ったのはそれまで自分の身に降りかかったことの数々だった。高校2年生から3年生の夏まで僕は大学受験塾に行っていた。その間、毎日ノート1ページの作文を書き、先生に一言コメントをもらっていた。最初は新聞の社説要約と感想文からスタートし、1冊目が終わった頃には好きに書くようになっていた。社説要約をしなくなったかわりに、日記的な内容から一般論に寄せた形式に着地させる形式を取ることが増えた、と思う。

 自分の文章を褒められた経験は嬉しかった。特に哲学期は(きっと今見ると耐えられないような)人生観を提示するような文章を書いていた。それを考えると、きっと褒められたのは内容ではなく、形式などだったのかもしれない。それでも当時の僕は生き方を肯定されたような気がしたのだろう。

 大学に入った僕は小説期を迎える。小説期と言っても入学後1年はプロットを書くだけ書いて作品を完成させたことはなかった。学部2年の秋に書いた8,000字程度の小説、結局それが全てだった。この時期はバイト先の企業で広告漫画用のシナリオ作成と外注先の企業が書いたネーム・カラーの確認業務に追われていた。小説期になって突き当たった問題がある。「誰に向けて書くのか」という問いだ。哲学期のエッセイは先生一人が読むものだった。広告漫画のターゲットは全国の高校生だった。それら対象読者を想定することであれこ適切な形式や表現を考えることができた——それでは、小説は? ……。白状すると根気強く長編小説を書き続けるのは僕の性に合わなかったのだろう。

 学部1年生の頃、仏語の先生から彼女の専門、マラルメの話を聞いた。サルトルも田邊元もマラルメについて書いているのを見た——もっとも彼自身も、誰かに語られる彼も全く理解できなかったが。世界に横たわる巨大な秘密、マラルメ。そんな彼との邂逅、あるいは大学入学前に意味がわからなかった小林秀雄訳『地獄の季節』、いまだに時折話すパブロ・ネルーダの映画「イル・ポスティーノ」、ここら辺が僕の関心を詩に近づけた。大学で詩の授業を履修するようになった。変わった授業だ。先生は現代詩を書くことをモットーにコミュニティを提供する。詩の書き方についてレクチャーや指導が入ることはない。小説と違って、詩の方が幾分僕には向いていたと感じる。それは幸福なことだ。現代詩期に入っても「(が!)誰に向けて書くのか」という問いはオブセッションのように付き纏っている。むしろ現代詩の歴史・性質上、これは本質的な問いの一つなのかもしれない。

 最近こうした経緯を振り返る中で不思議に思ったことがある。何かを書き始めた時、すなわち哲学期のモチベーションだったのは自分の人生、自分の考えであり、多分に露悪的なものを含むものだった——それは今の僕が蛇蝎の如く嫌うところになってしまった。僕を書くことに導いたもの、それを今の僕は可能な限り遠ざけようとしている。

 僕の生い立ち、人生上の(社会的に意味のある)経験を露骨な形で作品にすること、そしてそれを読まれることを良しとしないのは合評形式という授業の性質と、第一の読者となるのが友人たちという環境的要因もあるだろう——そんな作品にケチはつけにくい——たとえどれだけ詩として稚拙でも。僕の気質も変わったのだろう。そんなものを書くより、できるだけ綺麗なものや楽しいものを書いてコミュニケーションを豊かなものにしたい。専攻こそ政治思想・政治哲学だが今の僕は思想にも、哲学にも、あまり関心はないのかもしれない。

 唐突だが、きのこ帝国というバンドについて少し話をしたい。僕が哲学期にもっともよく聞いた日本のバンドの一つがこのきのこ帝国だ。何度も何度も繰り返して聞いた思い出の1枚に彼らの「フェイクワールドワンダーランド」がある。

 彼らの初期の作品は音楽的にはシューゲイザー的、歌詞の面では負の感情を振りまいたものだった——特に歌詞の面で、「フェイクファーワンダーランド」以前以後という語られ方は成立すると思う。作詞を担当する佐藤は音楽ナタリーのインタビューでこうした路線変更に「幸せになっちゃったんだね」と言う人がいたと話している。作風の変化が実際に佐藤の幸せ云々だったかどうかは問題にはしないが、そういう見方はなんとなく分かる気がする。僕が露悪的なことを書きたくなくなったのも、幸せになったからなのかもしれない——もちろんこうしたものの見方は一般化できないが。

 僕は時々、ものを書く。そしてそれよりうんと長い時間、ものを書かずに過ごす。書かれたものだって大した文章じゃない。作文ゾンビ。僕は死んでいることに気づいていないのかもしれない。それでも書くこと一般にしがみついていてダラダラと悪文を吐き出し続ける——そんなことすらここに記すように。

【レビュー】ぼーい みーつ ひまわりのはちみつ【L'abeille】

ひまわりの花の蜜で作ったブルガリア産のはちみつを買った。

shop.labeille.jp

 

事前情報としては味わいが「フルーティーな酸味とコクのある甘さ」らしく、「ヨーグルトやバタートーストに合わせると、朝にぴったり」で「程よい酸味はコーヒーの酸味ともバランス良く馴染み、爽やかな甘みを添えてくれ」るらしい。僕はコーヒーが飲めないので紅茶に合わせて楽しむことにした。

はちみつのレビュー

色:ひまわりそのまま。マンゴースムージーって言われても信じる。

匂い:花屋さんの匂い。色が緑。あんまりはちみつって感じの匂いじゃない。

舌触り:さらり。しゃらり。

 

お紅茶:ティースプーン2杯入れた。少し甘くなった。紅茶の香りにはちみつの風味がかき消されがちだった。多分めちゃくちゃ甘い方のはちみつでもないので1杯じゃあまりわからなかった。その点コーヒーの方が特徴が引き立つのかもと思った。お紅茶ならホットよりアイスの方が風味が消えないかも。

 

ヨーグルト:プレーンなヨーグルトに入れた。ヨーグルトってこんなに美味しいのかと感動するくらいめちゃくちゃ美味しくなった。ブルガリア産のはちみつなだけあるなと思った(?)。舌触り、しつこ過ぎない甘味が昔明治ブルガリアヨーグルトについていたフロストシュガーを思い出させる組み合わせだった。

 

食パン:レーズンパンみたいになった。本当に。説明文にある「フルーティーな酸味」ってそういう意味?

 

おすすめの楽しみ方は

 

ヨーグルト > 食パン > お紅茶

 

です。

 

 

 

美味しゅうござんした。

 

短文:エクリチュールにおける手紙の性質について

 角川書店から出版された『ランボオの手紙(祖川孝訳)』を読んだ。ランボーではなくランボオと綴ることからも察しがつくだろうが初版は昭和26年と古く異体字が多い。収録されている手紙は1870年から1875年まで、およそ文学史上最も早熟な詩人の一人が文学と訣別するまでに出したものである。交流のあった修辞学の教授イザンバール氏に宛てた手紙(見者の手紙として有名なもの!)では「貴方はわたしにとって教授者ではありません」と生意気に講釈を垂れたかと思えば詩人は文壇の大先輩テオドール・ド・パンヴィルに宛てて「わたしは18歳です。パンヴィル先生の詩なら、いつまでも好きです。昨年は、まだやっと17歳でした! 進歩しましたでしょう!」と可愛げのある後輩を演じて見せる。他にも詩人は方々に生活費の工面や逗留先の郵便局に局留めで何かを送れだのと頼んだり、彼を一人ロンドンにおいていったヴェルレーヌに「帰って来てくれたまえ」と切望する様子を——おそらく図らずも——今日に伝える。

 この本以外で僕の本棚にある手紙らしいものといえば光文社から出ているセネカ*1の『人生の短さについて』くらいかもしれない。役人仕事に追われて人生を浪費する知人に職を辞め、もっと重要なことに目を向けるように訓える手紙「人生の短さについて」、流刑地に流されたセネカの不運を嘆く母を励ます手紙「母ヘルウィアへのなぐさめ」などが収められている。セネカはそこで親愛なる送り先の人柄や事情を念頭に置いて筆を進める。それはもちろん冒頭のランボーであっても同じである——その結果手紙に認められる文言がどれだけ隔たっていたとしても。

 「送り先の人柄や事情を念頭に置いて」という当たり前のことをわざわざ書いたのはエリクチュールにおける手紙の性質を書き留めておくためである。岩波文庫から出ているがオルテガ・イ・ガセットは『大衆の反逆』の「フランス人のためのプロローグ」で人間のコミュニケーションの困難性——よりペシミスティックに言えば不可能性——に触れつつ、「万人に向かって話す」ことに疑義を呈する。彼は言語活動を発信者と受信者の対話と述べ、それぞれがそれぞれの像に思いを寄せることのできるかぎりにおいて良書とみなす——彼にとっては出版物も対話的態度を基礎に据えるものである*2。本来フランス人を念頭に書かれたものではないと彼は断りながら添えられるプロローグはそれだけで小冊子が作れそうなほどである。僕はこうした彼の書き手としての態度が好きである。

 文学研究の中でも作者研究に重要性を置くアプローチでは一次資料に基づいて作者の関心の仮説を立てて読み物の解釈に方向性を与えようとする。「作者の意図」というものである。散文よりも両義的であったり明晰なロジックに還元されなかったりする詩の方がこうした作者研究の恩恵を受けやすいだろう。

 ただ、ランボーが手紙の中でさまざまな表情を見せているようにある文学的解釈、理論の牽強付会として手紙を用いることには慎重になりたい。ゴフマン流の社会学ではないが手紙の相手との場において人格が存在するのであって、それは必ずしも作者としての人格と一致しているとは限らない。

 今日、局留め郵便の預かり期間は10日間らしいが意識の保存期間は場合によってまちまちである。まちまちであるが時には妥当性を持ちうるので研究の甲斐があるとも言えるのだが。

 手紙の性質——あるいはエクリチュールの対話性——と作者研究の話が交錯してしまった。小説、詩、その他雑文においてそれぞれ書き手が想定する読者は何であろうかという関心について手紙はいつも一つの理念型として示唆を与えてくれる。

*1:セネカは紀元1世紀の人間だがこの当時の手紙がよく今にも残っているなと思う。同時代にキリスト教(というより原始キリスト共同体)が生まれているが、新約聖書福音書のオリジナルと思われるものは残っていない。パピルスで書かれた資料のほとんどは風化してしまうからだ。運良く残ったパピルスの資料も多くが断片的なものである。なのでおそらくこの手紙はパピルスより保存性の高い羊皮紙に書かれたのだろうか。

*2:特に広報で叫ばれるビジネス用語ペルソナ・ターゲット設定もこうした理論・考えかたを応用できるかもしれない。